LB017_労働者のつながらない権利についての議論状況
2026/09/15
労働者の「つながらない権利」──日本ではいま、どこまで議論されているのか
スマホひとつあれば、休日でも夜中でも上司から仕事のメッセージが飛んでくる。そんな働き方に、ヨーロッパを中心に「もう勘弁してくれ」という声が形になり始めています。それが「つながらない権利(right to disconnect)」です。日本でも近年、政府の審議会レベルで真正面から議論されるようになってきました。今日は、日本におけるこのテーマの「現在地」を、公式資料をベースに整理してみます。
そもそも「つながらない権利」とは何か
厚生労働省の労働基準関係法制研究会報告書の整理によれば、「つながらない権利」とは、情報通信技術(ICT)の発達によって労働者が勤務時間外にも使用者からのアクセスに晒される状況を念頭に置き、そうした常時アクセス可能性から労働者を保護するための権利概念です95。欧州等で提唱されている中身をもう少し具体的にみると、①権利を行使したこと・行使しようとしたことに対する不利益取扱いの禁止、②使用者が労働者にアクセス可能な時間帯の明確化や制限、③「つながらない」状態を確保するための措置(労使交渉の義務付けなど)の実施、といった要素で構成されています21150。
分かりやすい例が、2024年8月26日にオーストラリアで導入された制度で、「その拒否が不合理でない限り、勤務時間外の使用者からの連絡を確認・返信することを拒否できる労働者の権利」と定義されています158。緊急のシフト変更や出社要請など、業務の責任や緊急性に照らして合理的な連絡までを一律に禁じるものではない、という設計です1。
諸外国の状況──明暗はくっきり分かれている
厚労省の整理を見ると、各国の対応は大きく割れています2482114。
- フランス:2016年の労働法典改正で法制化。従業員50名以上の企業では「つながらない権利」の在り方を労使協議事項として法定化していますが、企業側に取り決めを策定する義務までは課していません2381。
- スペイン:組織法3/2018第88条で「デジタル切断権」を規定。リモートワーク・在宅勤務者に、つながらない権利、休息、休暇、休日、プライバシー権を保障し、労使協定に基づき使用者が社内規程を策定する仕組みです2340。
- イタリア:スマートワークに関する法律で、個別労使合意により「つながらないことを確保する技術的措置」を定める形をとっています2540。
- ベルギー:安全衛生委員会の設置義務のある50人以上の企業で、デジタル機器利用と「つながらない選択肢」について交渉する権利を認めているものの、厳密な意味での「権利」規定ではないと整理されています2540。
- ドイツ:労働4.0白書で「労働者はそもそも自由時間中に使用者のために常時アクセス可能である義務を負わない」として、法律上何らかの措置を講じる必要性は認められていない、と結論づけています2381。
- イギリス・アメリカ:制度なし。米国ではニューヨーク州で条例化の試みがあったものの、経営団体の反対で実現していません2240。
- EU全体:2021年1月、欧州議会が「つながらない権利に関する欧州委員会への勧告に係る決議」を採択しています2682。
つまり、「先進国どこでも当たり前に法制化されている」わけでも、「日本だけが遅れている」わけでもなく、対応は各国の労使関係や法文化によって相当ばらついている、というのが実態です。
日本の現状──法令上の明文規定はない
日本の現行法令には、勤務時間外の業務上の指示や連絡そのものを規制する規定はありません101116。ただし、無関係かというとそうではなく、周辺のルールがいくつも存在します。
まず、テレワークガイドライン(厚労省労働基準局長・雇用環境均等局長通知)は、テレワークにおける長時間労働対策の一つとして「メール送付の抑制等」を明記しています。役職者や上司・同僚・部下等から時間外・休日・深夜のメール送付を自粛させること、メール以外の電話等も含めて時間外の業務指示・報告のあり方について、各事業場の実情に応じ使用者がルールを設けることも考えられる、とされています46。BLの実務解説でも、この考え方を踏まえて、「メール送付の抑制」「システムへのアクセス制限」「時間外・休日・深夜労働の原則禁止」「長時間労働者への注意喚起」を柱とする社内ルールづくりが提案されています5157。
また、労働基準法上、時間外・休日労働をさせるためには36協定の締結・届出と割増賃金の支払が必要であり、深夜労働には深夜割増が必要になります3646。仮に勤務時間外の連絡対応が「労働」と評価されれば、こうした規制がそのまま及ぶ、というのが大きな枠組みです。
日本企業の実態──「ルールなし」が最多
2025年6月に労働条件分科会に示された「労働時間制度等に関する実態調査結果」は、日本企業のリアルな姿を映しています。勤務時間外や休日の社内連絡(メール・チャット・電話等)に関するルールについて、「特段ルール等は整備しておらず、現場に任せている」が36.8%と最多で、「災害時等の緊急連絡を除いて連絡しない」が29.4%、「翌営業日に対応が必要など、急を要する業務に関する連絡のみ認めている」が27.1%となっています26。
事業所ベースで見ると、「ルールはないが、勤務時間外に連絡することがある」が44.4%と最も多く、「ルールはなく、勤務時間外には連絡しない」が34.0%、明文化はされていないがルールが存在するのが9.8%、就業規則・労使協定・労働協約でルール化しているのは合わせても1割弱です50。ざっくり言えば、日本の職場の半数近くが「明確なルールなしに、なんとなく連絡している」という状態ということになります。
政府レベルの議論──労働基準関係法制研究会から労働条件分科会へ
現在の議論の起点は、2025年1月8日に公表された厚生労働省の「労働基準関係法制研究会報告書」です131135。同報告書は、労働基準法等の見直しについて包括的・中長期的な検討を行ったもので、「労働からの解放に関する規制」の一項目として「つながらない権利」を明確に取り上げています95108。
同報告書は、勤務時間外に、どのような連絡までが許容でき、どのような連絡は拒否できるのか、業務方法や事業展開等を含めた総合的な社内ルールを労使で検討していくことが必要だとし、そうした話し合いを促進していくための積極的な方策(ガイドラインの策定等)を検討することが必要と提言しています108。いきなり「権利」として法制化するのではなく、まずは労使協議とガイドラインを通じたルール化を促す、という穏やかな方向性です。
この報告書を受けて、労働政策審議会労働条件分科会が2025年1月から順次議論を重ねており、2025年6月6日の第199回会合で「休日・連続勤務規制、勤務間インターバル、つながらない権利、年次有給休暇」がまとまって取り上げられました39。その後も同分科会は、2025年10月・11月、2026年3月の「働き方改革の総点検」を経て、2026年4月からは「労働市場改革分科会」へと議論の場を移して継続審議が続いています3999。
労使の意見──温度差はある
労働条件分科会での意見をたどると、労働側は法制化に前向きです。委員からは、業務外の連絡・指示の問題は労使だけでなく顧客と担当者の関係も絡む複合的な要因があるため、社内の取組だけでは環境整備は難しく法制化も念頭に置いた検討が必要ではないか、事業所ごとの労使協定などの明文化を含めて、労使で職場実態に合わせたつながらない権利の確保に資するルール化を促す取組を進めてほしい、といった発言が出ています100148。テレワーク時には情報通信技術の発達により勤務時間外の連絡も一層容易になっており、法制化に向けた検討が重要だ、という声もあります100152。
一方で公益委員からは、まずはメール送付の抑制やシステムへのアクセス制限等、既存のテレワークガイドラインに盛り込まれた長時間労働対策の周知を進め、勤務時間外の連絡を抑制するような社会全体での意識改革を進めることが重要だ、という現実的な指摘が出ています110。また、一企業の取組で完結する問題ではなく、休日や時間外の他社からの過度な連絡はカスハラにつながるおそれもあることから、つながらない権利がワーク・ライフ・バランスの実現などプラスになることを広く社会に周知することが望ましい、との意見も示されています110。
議論の背景には、「そもそも日本法では労働時間外の連絡対応を義務づけていないのだから、権利として立法化する必要はないのではないか」という論点もあります。ドイツで示された立法懐疑論は、労働者はもともと自由時間中に使用者からのアクセスに応じる義務はなく、使用者は自由時間中の労働者に労務提供を求めてはならないという配慮義務を負っているのだから、「つながらない権利」はすでに法的に保障されている、という理屈です2381。そして、常時アクセス可能な状態からどのような組織的・技術的措置で労働者を保護するかは各事業所の実情に応じて決めるべきで、事業所レベルの判断に委ねるのが適切、というロジックが続きます2381。この議論構造は、日本での慎重論とも重なる部分があります。
これからどうなるのか
今のところ、日本で「つながらない権利」が近い将来に単独立法として結実する見通しは、公式資料からは読み取れません。むしろ現実的な着地点として見えているのは、①テレワークガイドライン等で示された時間外連絡の抑制策の周知徹底、②労使協定・就業規則を通じた事業場ごとのルール化、③その運用を後押しするためのガイドライン策定、といった線です108110。
とはいえ、実態調査で示されたとおり、日本の職場では「ルールなしに何となく連絡が飛び交う」状態がまだ多数派です2650。長時間労働の是正、勤務間インターバル、テレワーク下の労務管理といった他の論点とも密接に絡む問題であり、労働条件分科会と労働市場改革分科会での議論は今後さらに続いていく見込みです3999。
企業実務としては、法制化を待つよりも、まず自社の勤務時間外連絡の実態を把握し、「どんな連絡までを許容し、どこからは拒否できるのか」を労使で明文化しておくことが、リスク管理としても人材確保としても意味を持つフェーズに入っていると言えそうです。世界の潮流を横目で見ながら、まずは自分たちの職場のルールを作る。日本の「つながらない権利」議論は、そんな段階にあります。
AIの回答には誤りが含まれる場合があります。実際の文献もあわせてご確認ください。
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